小さい頃テレビで、正義の味方であるヒーローが悪い怪獣をやっつけているのを見て、正義のヒーローに憧れたものでした。今でも、正義のヒーローになりたいと、どこかで思っているところもあります。
西洋の歴史の中では、正義のシンボルとされているのが、「天秤」や、それを持つ「女神」なのです。そうした古代ギリシャのアリストテレスの正義観は「平等」ということでした。彼は、人間は社会のなかでしか生きることができないという事態を述べ、社会における法や規則のなかに人間の可能性が発揮できると言っています。また、人間は本質的に~であるとかというふうな、はじめから決まっている存在ではなく、善いものにも悪いものにもなることができる存在であると言っています。すなわち、生まれながらにして善や悪になったのではなく、後天的に、生きていくなかの経験から、形づけられていくものであるということです。
したがって、人間は、善いものにも悪いものにもなりうる存在であるならば、それぞれの行為が善い方向に導かれ、人柄の善いものに形づけられるためには、それを取り巻いている環境が善いものであることが必然であると考えられているのです。
正義のヒーローはいつだって正しい、そして悪役はどこまでも悪いとされていて、たいていの場合、悪いとされる側の弁明の機会も与えられず、成敗されるのです。実生活のなかで、裁判では両方の言い分が与えられているのに、それがないということになり、フェアではなくなります。つまり平等でないということは、正しくないということになります。そうなると「正義のヒーロー」は、正しくないことになります。自分が一方的に正しいと思うことを他人にまで強制し、それが聞き入れられないとするならば、暴力に変えて倒してしまう、これこそが極悪人のほかなりません。本当に正義の味方なのでしょうか?これでは小さい頃に憧れていた正義の味方を否定してしまいかねます。
少し言い過ぎたかもしれませんので、ここで本題の「正義とは何か」に戻ってみますと、私たちが生きている限り、何が正しくて、何が正しくないかということは、至るところで関わってくる問題であり、実際にもあらゆる場面において、私たちはそれぞれに正しいと判断してきました。しかし、人によってそれらは同じではありません。そのような中で、お互いの「正しい」がぶつかり合うと、争いごとになるのです。それは、世界でも、日本でも、職場や学校でも、家庭でも同じようなことが言えます。よって、必ずしも、「正しい」が正義とは限らないのかもしれません。
最後に、自分の正しさを押しつけるのではなく、お互いの気持ちを尊重し合うことを忘れてはならないと思いました。
(法人内会報より)